2020/04/28
南区医師会報 第301号(2005年11-12月)Vol.30 No.6 p4-6に投稿した原稿です。
15年も前に、その時点から20年近くも前のことを書いたことです。3組というのは南区医師会の中にある隣組の番号で、全部で16組ある中の第3組ということで、清水、玉川町から塩原にかけての開業医の集まりです。
3組 合田周一郎
通勤の車から道路沿いにコインランドリーが見えます。たぶん最新式で、いくつか並んだドラムの中を衣類がぐるぐる回転しているのを、外からでも見ることができます。平日の朝8時にコインランドリーで洗濯をしているのはどんな人なんだろうと、渋滞した車の中で考えていました。
私が最後にコインランドリーを使ったのは学生のころだったはずです。下宿の近所にあったコインランドリーに、衣類を詰め込んだビニール袋をかついで、通ったものでした。卒業して最初の沖縄の病院では、部屋のベッドの上に白衣を置いておくと掃除のおばさんがきれいな分と替えてくれていましたし、下着代わりの術着は救急室からくすねてくればよかったので、洗濯をしたという記憶がありません。よく考えると、アメリカでねずみの実験をしていたころが、コインランドリーを使った最後だったような気がします。
87年のはじめ、体も心もカチンカチンに緊張した状態でセントルイスに行って、ひと月も経たないうちにくびになってしまい、医局の先輩の紹介で今度はワシントン郊外のNIHに来たのが3月か4月でした。最初はNIHの紹介でハイチ人の大学教授(カトリックのくせに3回も離婚したというフランス語アクセントの強い長身のおじさんです)の家に下宿していたのですが、そのハイチ人の家主ともうひとりの下宿人のドイツ人の女の子がキッチンで抱き合っているのに遭遇したりもあって、ラボにもっと近いところの下宿先を探すことになりました。新聞のクラシファイド欄をみて、最初に見にいった家は、長髪でTシャツの、幼稚な入墨でもいれていそうな若い住人ばかりで、英語もよく聞き取れなかったのでパス。2軒めは、家主は公務員でスーツをきているような人だし、もう一人の住人も30歳前後、以前日本人がいたこともあるというので即決になりました。ボブという家主は英会話のテープみたいな正しい英語を話す人物で、もう一人の住人ジョンは弁護士という話でした。月に200ドルだかを払って一部屋もらって、風呂、キッチンは皆で使うというアレンジです。ルームメートという言葉は知っていましたが、このときはじめてハウスメートということばをこのボブから聞いたのでした。玄関を開けるとすぐキッチン、左手に20畳くらいのリビング(パーティーのとき使うくらいで、ふだんは椅子があるだけのスペース)、リビングの奥にステレオが置いてある小部屋、その右手が4畳半くらいの子ども部屋といった感じの寝室で、私の部屋ということになります。2階に二部屋寝室があって、マスターベッドルームの方をジョンが、小さい方の部屋をボブが使っていました。
NIHにきて、実験は始まり、特にしてはいけないということはないのですが、給料はまだ出ず、ビザの上でも前の職場をくびになったところですから不法滞在と区別しにくい状況でした。親に送金してもらいつつの生活で、お金は節約する必要がありました。30歳にもなってお金がないのはかなりつらいところですが、毎日緊張してすごしていると、くびになったばかりのころよりは段違いに明るい毎日でした。ルメイロードのボブの家は、たぶん第2次大戦後復員してきた兵隊さんたちが家族を持って生活するために開発された一画で、こんもりとした森のなかに、日本人の感覚だと、点々と家が散在する感じですが、まああまり高額所得のひとはいなさそうな住宅地にありました。ラボまでなんとか歩いていけ、地下鉄の駅も徒歩の距離内です。小さなショッピングセンター(道路沿いのストリップモール)へも歩いていけます。しかしどこへ行くにも30分はかかり、今だったら絶対歩かない距離ではありました。引っ越して1-2週間たったころでしょうか、土曜日の昼前、ボブが一緒に洗濯にいかないかと誘ってくれました。ジョンも一緒に洗濯物をかごに抱えて、ボブの車でコインランドリーに行ったのでした。ジョンは車を持っていません。彼の専門はキャンペーンファイナンシング(政治資金規正法?)だそうで、法律事務所にいたことはあるようですが、そのころはなにかの財団でリサーチをしているということでした。エプステインという苗字をきかなくても、ジューイッシュであることが判るような、分厚いめがねとブラシのような口ひげをたくわえたジョンは、政治資金規正法の網目をかいくぐって甘い汁をすう、なんてことはできそうにない学究肌にみえました。「財団」の仕事はヒマそうで、「うつ」のあとのリハビリにちょうどよいほどの仕事だったようです。ボブは舟のような巨大なビュイックに乗っているのですが、洗濯機は持っていないようです。日本じゃ、車や家の持ち主は洗濯機ぐらい持っているもんです。
韓国人がやっているクリーニング屋さんの半分がコインランドリーになっている感じで、その店主とボブが明るく挨拶しているようですが、よく聞き取れません。ラジオがなにか軽快にしゃべっていますが、これも英語なので内容不明。外はぬけるように青い空で、サングラスがないとまぶしすぎるくらいです。店の中は薄暗く、乾燥機の熱気が直接皮膚にあたる熱さです。近くのセブンイレブンでホットドッグを買おうとすると、インド人かパキスタン人の店主はなんとかいう商標名で答えるだけで、その目の前にあるホットドッグをホットドッグとは決して呼ばないのでした。ボブはでも、それはホットドッグだろといいながらも、議論は避けてそのホットドッグをおとなしく買い、食べながら洗濯が終わるのを待っていました。強力な乾燥機を同時に何台かで使うので、ボブの化繊のワイシャツはあっという間に乾燥してしまいます。2-3週間分の洗濯物がまたたくまに済んでしまいました。ドラムの回転する大きな音とラジオの音楽(カントリーミュージックだったような気がします)を聴きながら、アメリカに来たことを実感していました。
ボブはあまり優秀ではないようですが、一応ジャーナリズムの修士号を持っています。ニューヨークの広告代理店で働いていた時期もあったそうですが、ここ15年くらいは連邦政府のお役人、そのころはデパートメントオブエジュケーション(文部省?)でスピーチライターをしているということでした。仕事に行くのは確かに早朝ですが、帰ってくるのは3時か4時くらいで、役所できちんと働いているようには見えません。実際このころ、中古の家を買っては人に貸し、借金を家賃で返すという方法で、財産を築く夢にひたっていて、夕方や週末はこの家々(ピーク時には5-6軒持っていたはずです)の管理で大忙しでした。不動産の価格の上昇のスピードが金利の上昇のスピードを十分に上回っていれば、この方法で財産が築けたはずですが、ボブの場合、不動産バブルが始まるまでもちこたえることができず、結局損をかぶってすべての家、ルメイロードの本来の持ち家を含めて全部の家を処分せざるを得なかったようです。一言でいえば、愚かな「負け組」に過ぎないのですが、ちっとも懲りずに夢を語り続ける好人物でした。身長は190センチ以上、体重も100キロくらいはありそうです。薄い灰色の眼で、典型的なアメリカ人のようにも見えますが、お父さんはこどものころオーストリアから養子としてニューヨークに来たのだそうです。正しすぎる英語の発音にはこういったことも関係しているのかもしれません。こいつはどうしてこんなに頭がわるいのだろうと思うのですが、彼の家を出たあとずいぶん経ったあとでも、サンドイッチを食べに行こうと電話がくるとつい行ってしまいました。自分が落ち込んでいるときに、ひとがじたばたしているのを見るのは治療的効果があったのだと思います。実際ありがたい友人でした。
コインランドリーは、お金はなかったけれど夢はあったころとリンクしています。今は幸いコインランドリーに行く必要はないのですが、夢のスケールは確かに小さくなってしまいました。ボブは、その後役所は辞めて、不動産屋で働き始めました。最近でも2-3年に1回くらい、クリスマスカードが届きます。不動産バブルはやっと彼のところにも届いたようで、景気はいいようです。こっちも思い出したらときどき年賀状を出します。私には、今ひとに言えるようなたいそうな夢はありませんが、彼はいまだに夢を追い続けているに違いありません。あのコインランドリーを思い出しながら、私も明るい未来について考えようと思っています。